第2章 名越語録

名越「二荒之助」の名前の由来

私の父は日露戦争に参加し奉天の大会戦で勝利しました。
すぐ帰ればよかったんだけど満州で活躍したいという夢がありました。
だからその頃は子供が生まれたら満州いう名前にする予定だったんです。
ずっと遅れて帰国しましたが子供がなかなか生れず、日光の二荒山神社に願をかけました。
男が生れたら「二荒之助」、女だったら「二荒子」にする予定でした。男で幸いでした。
私の両親は「お前は神様の申し子だ。神様から授かり者だ」と、暗示をかけながら育てました。
そもそも人間は「神前結婚」して子供は神様から授かるんです。
神様からの授かり者というのが精神科学であり、精子と卵子の結合というのは自然科学です。
両方の科学を大切にしたいものです。

アメリカの教科書に載っている建国のいわれ

〜神々の国 Land of the Gods〜

日本の子供たちは、学校で次のように学んでいる。


  イザナギという権威ある神が、その妻イザナミと共に「天の浮橋」(Floating Bridge of Heaven)の上に立った。
  イザナギは、眼下に横たわる海面を見降した。
  やがて彼は暗い海の中に、宝石を散りばめた槍をおろした。
  その槍をひき戻すと、槍の先から汐のしずくが落ちた。
  しずくが落ちると、次々に固まって、島となった。
  このようにして日本誕生の伝説が生まれた。
  またこの伝説によると、イザナギは多くの神々を生んだ。
  その中の一人に太陽の女神があった。
  女神は孫のニニギノミコトを地上に降りたたせ、新しい国土を統治することを命じた。
  ニニノギノミコトは大きな勾玉(まがたま)と、神聖な剣(つるぎ)と、青銅の鏡の3つを持って、九州に来た。
  これらはすべて、彼の祖母から送られたものであった。
  これら3つの品物は、今日もなお、天皇の地位の象徴となっている。
  ニニギノミコトにはジンムという孫があって、この孫が日本の初代統治者となった。
  それは、キリスト紀元前660年の2月11日のことであった。
  何百年もの間、日本人はこの神話を語りついできた。
  この神話は、日本人もその統治者も、国土も、神々の御心によって作られたということの証明に使われた。
  現在のヒロヒト天皇は、ジンム天皇の直系(direct line)で、第124代に当ると言われている。
  かくして日本の王朝は、世界で最も古い王朝(dynasty)ということになる。


日本語にして、わずか600字程度の短い文章です。
この短い中に伊邪那岐・伊邪那美命の国生み神話から、
太陽の女神・天照大神、3種の神器、瓊瓊(ににぎ)杵(の)尊(みこと)の天孫降臨、
神武紀元(2月11日の意義)、神武天皇から124代にわたる万世一系、
世界で最も古い王朝等、戦後の日本の教科書で触れていない事柄ばかり、
ギッシリ詰まっている感じです。
毎年2月11日になると、全国各地で祝典が挙行されます。
東京でも「建国記念の日・中央式典」が持たれます。
その時、首相が出席するかどうか、「神武創業」に触れるかどうか、でもめます。
首相は出席した時、いちどこのアメリカの教科書を翻訳して祝辞を述べたらどうでしょうか。
この米教科書は、伊邪那岐・伊邪那美の国生みからはじまって、キリスト紀元前660年の2月11日、
初代神武天皇の創業に至るまでを、的確に要約しています。
よくできているので、祝辞の原稿が苦労なく作れます。
戦後政治の総決算を意図する首相がもしそれをやったら、大マスコミはこぞって、
「皇国史観の化物」扱いにするでしょう。
そうしたら首相は記者会見で、「あれはアメリカ教科書をアレンジしたものだ」と示せば、
マスコミはどう反応するでしょうか。
政治家は国民意識を回復するために、時にマスメディアを通じて刺戟を与え、
面白くしなくちゃ。
それと共にマスコミ人も野党人も、目くじらをたてたりせず、
ユーモアを解するだけの余裕を持って欲しいものです。

「世界に生きる日本の心」より


大楠公

昭和60年は、楠木(くすのき)正成(まさしげ)が七生報国を誓い、
湊川(みなとがわ)に討死(延元元年・1336年)して、650年(数え年)になります。
神戸の湊川神社では、5月25日「大楠公650年祭」が、盛大にとり行われます。
ところが、どの教科書も、足利尊氏は馬上像入りで大きく紹介していますが、
楠木正成は登場しません。
たまに出ていても名前だけで、戦後楠公精神が教科書で語られたことがありません。
楠公父子は我が国史の精(せい)ともいうべき存在であります。
我が国が危機に遭遇すれば、必ず甦ったのが、楠公精神でした。
吉田松陰をはじめ幕府の志士を決起させ、
日清・日露・大東亜戦争から前後の三島事件に至るまで、
精神的エネルギーの根源となったのが、楠公父子の誠忠物語でした。
(足利尊氏に感動した日本人はいなかったし、この心が歴史に甦ることはない)
私にとって太平記の描く楠公父子の物語は、いかなる小説よりも、
そして世界史上のいかなる事実よりも、深い感動を呼びます。
正成は死を決意した湊川出陣の前に、長男正行(まさつら)を、桜井の里に呼びよせます。
正行は父に従って、湊川で討死したいとせがみますが、正成は

「四、汝をここより帰さんは
   われ私(わたくし)の為(ため)にならず
   己(おの)れ討死為さんには
   世は尊氏の儘(まま)ならむ

   早く生ひ立ち大君に
   仕へまつれよ国の為
 五、この一刀(ひとふり)はいにし年
   この世の別れの形見にと
   汝にこれを贈りてむ
   行けよ正行故郷へ
   老ひたる母の待ちまさむ」

(明治32年、落合直文作詞、奥山朝恭作曲「桜井の訣別より」)

とさとして故郷に帰します。
父の遺志を受続いだ正行・正時兄弟は、成長して各地に転戦、
最後は高師直八(こうのもろなお)8万の軍勢と、
四条畷(しじょうなわて)で決戦を挑みます。
時に正行は22歳。

「一、吉野を出でてうち向ふ
   飯盛山の松風に
   なびく雲か白旗か
   響くは敵の閧(とき)の声
 二、あな物々し八万騎
   大将師直いずくにか
   かれの首(こうべ)をとらずむば
   ふたゝび生きて還るまじ」

(明治29年、大和田建樹作詞、小山作之助作曲「四条畷」より)

わずか600騎の正行の軍は、一時師直を窮地に追詰めましたが、
衆寡敵せず、兄弟立ったままさしちがえたと、太平記は書いております。
考えてみれば、正成は、南風競わざる中にあって、
我が子正行に遺志を受継ぐことは教育の原点を示したものではありますまいか。
大楠公650年にあたって、楠公の遺志の万分の一でも喚び起し、
父祖の偉業を正しく次代に受継ぐ決意を固めたいものです。

「反日国家・日本」より

足利義満の臣従外交と懐良親王の対等外交

足利義満の臣従外交

昭和57年夏は、日本民族にとって屈辱の季節であった。
このような時代が、かつての我国の歴史に存在したであろうか。
思い出すのは足利義満である。
足利三代将軍義満は、対明貿易の利益を期待して、
応永8年(1401年)使者に宝物を持たせて、明に送った。
その国書の冒頭は、
「日本准三后道義(義満の出家名)、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」から始まるものであった。
翌9年、明の使者が到着すると、ひざまづいて明の国書を奉戴した。
その中には、
「爾(なんじ)日本国王源道義、心を王室(明王室のこと)に存し、君(明王)を愛する誠を懐き・・・
 大統暦(明の暦)を班(わか)ち、正朔(せいさく)(明の定めた元号や歴法)を奉ぜしむ」
の文言があった。
即ち明王は義満を「日本国王」と呼んでよろこばせ、明王に対して忠誠心を抱いていることをほめ、
明の大統暦の使用を指示したものであった。
翌応永10年、義満は明使の帰国と同時に使節を派遣した。
その時の国書は、
「日本国王臣源表す。臣聞く・・・」
という書き出しで始まり、明の大統暦を使って臣従する態度をとった。
このような屈辱的外交に対して、親義満派といわれた公家でさえも堪えられなかった。
その中心人物二条満基は、「書様以ての外(ほか)なり、是天下の重事なり」と批判した。
また瑞渓周鳳も、
「臣の字は、天皇に対して使うもので、明に対して使うのは最もよくない。
 それに明の年号を用いることもいけない」(『善隣国宝記』から要約)
と指摘している。
こういう厳しい批判の前に、義満の長男である四代将軍義持(よしもち)は、それを恥とした。
終に応永26年(1419年即ち臣従の字を使ってから16年目)来日の明使に、
このような外交は「神の許さざる所である」返書し、対明貿易を拒否した。

日本人は敗戦以来、過去の歴史に対する自信を失い、屈辱的意識から脱却できず、
その象徴的なものの一つが、教科書書替要求に応じたことであった。
しかしいつもでも、このような時代が続くとは思われない。
いつの日か日本人の自主的精神は甦るに違いない。
その時足利義持が明に対し、「神の許さざる所」と返書したように、
教科書の書替要求を白紙に戻す時が来るであろう。
その時賢明なる我々の子孫たちは、教科書の書替に応じたあの季節を嘲弄するに違いない。
その時当時の首相と官房長官の名は、暗愚と屈辱の代名詞として使われるようになるのではないか。

懐良親王の対等外交

義満は足利幕府の基礎を固め、権勢並ぶものなき存在であった。
政治の実験を握り、太政大臣にまでなった。
その人物がなぜ明に対して臣従を誓うような態度をとったのであろうか。
対明貿易の利のためには、日本の威信を放棄しても、痛痒(つうよう)を感じなかったのであろうか。
義満と対比して想い出すのは、南風競わざる南北朝時代の懐(かね)良(なが)親王である。
親王は延元3年(1338年)、
後醍醐天皇の命によって、西征将軍として九州に派遣された。
九州各地に転戦し、正平14年(1359年)には、
勤王・菊池武光の力を得て筑後川の合戦(太刀洗)に勝利し、大宰府に西征府を置かれた。
その時は既に後醍醐天皇が崩ぜられて20年が過ぎ、
国内は南朝方、北朝方に分裂し、南朝方は衰運の極におかれていた。
その正平24年(1369年)、明の太祖洪武帝は、
大宰府の親王のもとに、明への朝貢と、倭冦の禁圧を求めてきた。
その国書の中に、次のような文言があった。


「宜しく朝すべくんば則ち来庭せよ。しからずむば則ち兵を修めて自ら固めよ。
 もし必ず冦盗為さば、即ち将に命じて徂征せむのみ、王それを図れ」

(明史・日本伝)

即ちこの内容は、
「日本は明にたいして、臣従を誓うか、それとも反発するか。もし今後も倭冦が暴れれば、征伐するぞ」
という威嚇であった。
それは100年前に蒙古が鎌倉幕府に試みたものと変わらなかった。
それに対して親王は、この文辞が不遜であるとして、返書を与えられなかった。
『明史』も「日本国王良懐(懐良親王のこと)命を奉ぜず」と記している。
しかし明は翌年、懲(こ)りることなく使者を派遣して、誠意を示さなければ、
征服の意図があると脅した。
それに対して親王は、毅然たる「返書」を返された。
その内容は、明の立場も日本の立場もわきまえた堂々たるものであった。
『明史』もその長文を掲載している。

「臣聞く、三皇立拯し、五帝宗と禅(ゆず)ると。
 惟(こ)れ中華の主、豈(あに)夷狄にして君無からんや。
 乾坤浩蕩にして、一主独権非ざれば、宇宙寛洪として諸邦を作(な)し以て分を守る。
 蓋(けだ)し天下は乃(すなは)ち天下の天下にして一人の天下に非なるなり。
 臣、遠弱の倭、偏(へん)小の国に居りて、城池は六十に満たず、
 封疆は三千に足らざるも、尚足るを知るの心存す。
 陛下中華の主と作(な)り萬乗の君為りて城池は数千余、封疆は百万里なるも、
 猶(なお)足らざるの心ありて、常に滅絶の意を起す。
 夫(それ)天は殺機(易経の語)を発して星を移し宿を換ふ。
 池は殺機を発して龍蛇陛を走らす。
 人は殺機を発して転地反覆す。
 昔は堯舜徳ありて四海来賓し、湯武は仁を施しては八方奉貢す」

以上『明史』日本伝に掲載された懐良親王の文章を意訳すれば、次のようになる。

「この世界にはいろいろの国があり、それぞれの国に元首がある。
 それらの国が自分の分を守っておれば、世界は安定する。
 世界は世界の世界であって、決して一人のものではない。
 わが国は貴国から遠く離れた小国である。
 それに対して貴国は大国である。
 それものなお不満で、他国を攻め滅ぼそうとする気持ちを起こしたら、
 易の道に反することになる。
 かつて貴国には、堯・舜のような徳の高い王があり、
 湯・武のように仁政を施す王があって、よく治っていたではないか」

親王はまずこのように説いて、さらにわが国の決意を伝えられた。

「臣聞く、天朝戦を興すの策有らば、小邦亦敵を禦ぐの図有り。
 文を論ずれば孔孟道徳の文章有り、武を論ずれば孫呉韜略の兵法有り。
 又聞く、陛下股肱の将を選び、精鋭の師を興し、臣の境を来り侵さば、
 水沢の地、山海の州、自ら其の備あり。
 豈(あに)肯て途に跪きて之を奉ぜん乎(や)。
 順ふも末だその生を必せず、逆ふも未だその死を必せず、
 賀(が)蘭(らん)山(寧夏省にある山)前に相逢ふて、聊(いささか)以て博戯せん。
 臣何ぞ懼ん哉」

「もし明国がわが国に対して戦を挑むならば、わが国は小国なりといえども防備の手段を持っている。
 わが国の孔子・孟子が書いた文章を知っているし、孫子・呉子、六韜三略の兵法を心得ている。
 もし国境に追ってくれば、迎え撃つ用意がある。
 どうして屈服などしようか。明に屈服しても生きのびてゆけるかどうか判らない。
 また明と戦っても、必ずしも敗れるとは限らない。
 むしろこちらから進攻して賀蘭山前で決戦勝利し、すごろくでも楽しもうではないか。
 自分は決して明国を懼れるものではない」

親王はこのような烈々たる決意を示し、最後は次のように結ばれている。

「もし君勝ちて臣負(やぶ)れば、且(いささか)上国の意を満さん。
 設(も)し臣勝ちて君負れば、反(かえ)って小邦の羞(はじ)を作(な)す。
 古(いにしえ)より和を講ずる上とし、戦を罷(や)むるを強とす。
 生霊の塗炭を免(さ)黎庶の艱辛拯(たす)けむ」

「もしわが国が、明国と戦って敗れれば、貴国は満足するであろう。
 もし小国の日本が勝ったとしたら、むしろ恥かしいくらいだ。
 重大なことは、戦争をしないことだ。昔から戦争をしないようにすることが上策とされ、
 戦争を早くやめることが強策とされている。
 人民たちに苦しみをなめさせないようにしたいものである」

 この懐良親王の手紙を読んだ明の太祖・洪武帝は、怒気を顕(あら)わにしたが、
かつて蒙古が遠征して失敗したこともあるので、終に出兵することをやめた。
そのことを『明史』は簡潔に次のように書いている。

「帝表を得て慍(いか)なること甚だしきも、終に蒙古の轍(てつ)に鑑みて、兵を加えざりき」

以上は『明史』(翻訳の協力、森田忠明氏)に基づいて語ったものである。
この文章を出された2年後、懐良親王は幕府打倒の夢破れてなくなられた。
もしあの段階で親王が、義満のように明に追従し、貿易の利を独占しておられたら、
あるいは捲土重来、京都進撃に成功していたかも知れないのである。

それはさておき、戦に敗れた戦後の日本は南風競わず、正論は地を払った感がある。
その時思うのは、(明の歴史もこのように大きくとりあげた)懐良親王の心境である。
当時の明は大国・元を追放し、威勢嚇々たる洪武帝の頃であった。
東方の小国に対して高圧的態度で臨んだのは、当然であったであろう。
文中に親王自ら称して「臣」、明王を「天朝」とある。
これは明の史家が改訂したのかも知れないが、親王が最大限の譲歩をされながら、
明王の野望を挫こうとされたものとも拝察される。

また当時、明は我国の事情にうとく、大宰府を首都と思い込み、親王を王と誤認したのであろう。
しかし親王は、当時の分裂した国情を知らせない配慮から、
一九州の力を背景に、決然たる態度を示された。
それは聖徳太子以来の日出ずる国の自主外交の伝統を踏襲せられたものといえずしても
権勢を誇っていた義満が、貿易の利に走って臣従を誓ったり、
経済大国の日本政府が、教科書の書き直しに応じたりした屈辱外交と対比して、
懐良親王が偲ばれること切である。

「反日国家・日本」より

西郷隆盛と大久保利通

西郷さんを支持するのか、大久保利通を支持するのか、
僕はどっちも支持しないし、どっちも支持するわけ。
特にですね、僕なんか現在のようにね、もうペコペコするでしょ、
韓国、中国にペコペコしてね、靖国問題でさえもですね頭が上がらなくなった。
もうこういう国は独立国じゃないですわな。
それでもう総理大臣なんか国賊ですよ、
そりゃあ。国賊を頂いているようなもんですよ。
本当に英霊に申し訳ないですわね。
侵略のつもりで戦った日本人は一人もおらんのにね、みんな侵略と言うて、
教科書まで書くような国です、変な国になってしまったですわね。
それで僕が西郷さんを思うのは、あの人が征韓論と言われている遺韓論でね、
韓国へもし西郷さんが行っとったら、その後の歴史の展開が変わっとりますよ。
ずばりとした話ができるからですね、
西郷さんがあのときに遺韓論者としてですね、
大院君と話をしとったら
その後の歴史の展開が変わっとったになあとこういう風に思いますよ。

それから大久保利通が沖縄の54人を台湾で惨殺されたことがあって、
そのとき大久保利通が北京まで乗り込んで52日間座り込んで、
ついに解決して52万テール取ったんです。
清国に謝罪させた。明治7年ですよ。まだ日清戦争もやってないのにね。
明治の人は命がけでやるからな、外交を。
現在の政治家は皆小者になってね、選挙のときには命がけでやります言いながらね、
命のかけ方を知らないわけ。
それで小泉さんなんか平壌まで行ったでしょ、日帰りで帰ってくるんですからね。
子供の召使(ママ)みたいなもん。どうして座り込みをやらないかですよ。
大久保利通に倣って。解決するまでは帰らん言うて。
平壌で小泉さんが座り込みをやってご覧なさい、日本人全部支持しますよ。
お金を使わずに選挙で圧倒的な勝利です。世界の新聞が書きたてますよ。
日本の総理大臣が座り込みをやった言うて。
拉致問題で。みんな支持しますよ。
小泉さんを中心に世界は動きますよ。
世界外交は。少し西郷さんや大久保利通の勉強をさせたいですな。
よく見てもらいたいですね。

今度の安部さん、若い総理大臣、
この人なんか靖国神社に参るとも参らないとも言わない。
どうして靖国神社にまず参って、
それから北京の天安門広場に中国の靖国神社があるんですから、その中国の靖国神社にも参ると。
「戦い終われば昨日の敵は今日の友、これが日本武士道だ」言うて。
中国の靖国神社にも参る。
そうしたら朝日新聞も喜んで書き立てますよ。簡単なことですよ。
変な理屈はいらない。韓国へ行ったらですね、韓国の国立墓地に参ると。
簡単なことです。
西郷さんは殺されるときは満年齢で50歳でしょ、大久保利通は49歳でしょ。
みんな若くして侍が多かったですね。明治の精神を回復しよう、それを思います。

大東亜戦争の超一級資料

大東亜戦争の発端も、米を中心とする英・支・蘭の共同謀議(ABCD包囲陣)にあった。
彼らは日本を抑え込むために石油を禁輸し、石油をエサに外交交渉で時間をかせいだ。
最後は日独伊三国同盟の死文化、支那大陸からの撤兵、
そして日本が支援した汪兆銘南京政府の否認という降伏に等しい屈辱のハルノートを押しつけた。
ここまで追い込まれて立ちあがらなければ、
第二、第三の屈辱的条件が持ち出されることは必至であった。

「斯ノ如クニシテ推移セムカ、
東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力は悉ク水泡に帰シ、
帝国ノ存立亦正ニ危殆(キタイ)頻セリ。
事既ニ此ニ至ル。
帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ッテ
一切ノ障礙(ショウガイ)を破砕スルノ外ナキナリ」

(宜戦の詔勅)

というのは、当時の国民の実感であった。
明治以来東亜安定に関して責任を持ち、
アジア諸民族の興(よ)望(ぼう)を担っていた誇り高きわが国は、
戦わずして屈することはできなかった。
この当時のわが国の戦争目的や、
民族としての精神的エネルギーを検証する資料(当時の出版物その他)は、
それこそ無尽蔵といってもよいほどである。
しかし戦後は、あの当時のものを否定し、嘲弄する時代風潮が続いた。
即ち極東裁判以降作られた、いわゆる「事後資料」ばかりで、当時を見るようになった。
これまでは当時の日本の立場や戦争論が理解できず、時代への臨場感も出てこない。

私はここに宣戦の「詔書」を引用した。引用するだけで反発される向きもあろう。
しかし、戦争中、毎月8月(12月8日の開戦に因んで)には、「大詔奉載日」が設けられていた。
その日は各地で式典が持たれ、詔書が奉読せられた。
またその日の新聞の一面トップには、この詔書が掲載されていた。
当時これが暗唱できる日本人は多かったのである。
しかし、戦が終わると、ほとんどの人が省みなくなった。
しかし今読み直してみると、戦争目的がきわめて簡潔に要約してある。
それは新鮮な驚きですらあった。日本国民はこの詔書を奉じ、詔書と共に戦ったのである。
たくさんある大東亜戦争中の歴史資料の中から、
一つだけ選べといわれたら、これ以外には考えられないでないか。
それは政党でいえば「網領」、宗教教団でいえば「経文」とか「聖典」にあたるものではないか。
日本社会党を語る場合、党網領を抜きにしては叱られようし、
日教組を見る場合、「倫理網領」を抜きにしては、失礼にあたる。
キリスト教を語る場合、バイブルを無視することができないようなものである。

「反日国家・日本」より

世界を喜ばした真珠湾攻撃 PART1

昭和16年12月8日、真珠湾奇襲の日は月曜日でした。
私は当時18歳、山口高商の1年生で、学校に行くと日米開戦で持ちきりでした。
授業にならず、どの教授も「相手にとって不足はない」、「いよいよやるぞ」と、
白髪を振り乱して叫ぶ姿が忘れられません。
たちまち軍艦マーチと共に、アメリカ太平洋艦隊全滅。
2日後の10日には、マレー沖海戦でイギリス極東艦隊を全滅させました。
足の踏む所を知らず、この昂奮と感激はサッカーのワールドカップで
ゴールに球が入ったどころの騒ぎではありません。
この報にアジア諸国がいかに感動したか。
パー・モウ(ビルマの首相)の『ビルマの夜明け』が具体的に細部にわたって書いています。
そして何よりアメリカのルーズベルト大統領が喜びました。
彼はイギリスがドイツに封鎖され風前の灯になっている所を救うには
アメリカが参戦するよりほかありません。
参戦するには、ドイツか日本から先に攻撃させなければなりません。
ドイツはなかなか乗ってこず日本にハル・ノートを突きつけました。
中国大陸から撤兵しなければ石油を売ってやらないと、圧力を加えたのです。
我慢していた日本ですが、石油がなくては戦えず、
まず日本はアメリカ太平洋艦隊の拠点である真珠湾を奇襲しました。
喜んだのはルーズベルトです。
私が先年訪米した時、日米戦をペリリューや沖縄で戦ったフォックスさんは言っていました。
「我々もルーズベルトも山本五十六には感謝している。あのハワイ奇襲は見事で有難かった。
 ルーズベルトが、もっと長生きしていたら、ヤマモトに感謝状を出していたであろう」と。

日本の真珠湾奇襲をルーズベルト以上に喜んだのはチャーチルと蒋介石でした。
2人とも「真珠湾奇襲によって燃えないアメリカのボイラーに火がついた。これで勝てる」と、
昂奮して回想録に書いています。
ヒトラーは「日本は開国以来戦争に負けたことのない国だ」として、アメリカに宣戦しています。
しかし一番にんまり喜んだのはスターリンでしょう。
これで真の狙いである日独対米英、
即ち資本主義相互間で戦争させるという謀略が見事に成功したのですから。
かくしてソ連は第2次大戦後、世界を二分する大勢力にのしあがりました。
最後に笑ったのが、スターリンでした。
そのスターリンですが、マルクスレーニン主義という間違ったイデオロギーに固執していたために、
20世紀末にソ連という国は見事に自己崩壊してしまいました。

世界を喜ばした真珠湾攻撃 PART2

大東亜戦争が終わってから30年近く経った昭和49年のことです。
私は文部省から派遣されて世界を一周したことがある。
一番に東南アジアに行きました。
タイやビルマの先生方と会いますと彼らが言うのに

「大東亜戦争は最初がよかった。 
 真珠湾を奇襲してアメリカの太平洋艦隊を一挙に撃滅、
 2日後にはイギリスの極東艦隊を全滅させました。 
 あれが忘れられないです」と、
当時のことを言うんです。
日本人もその頃いかに昂奮したかです。
サッカーでボールをゴールに入れて
「日本、日本」言うて今喜んでますけれどね、
それどころじゃあないですよ、
あの頃の真珠湾の奇襲の成功、イギリスの極東艦隊の全滅。
あれを東南アジアに行くといまだに話する。
「しかし日本は負けたからね」と言うと、

「そりゃ負けるのがあたり前だ。
 世界を相手にしたんだから。
 しかし最初がよかった、あれでよかったんだ。
 日本軍は負けそうになってもよく戦った、
 太平洋の島々で玉砕し特攻隊まで出した。
 今までアジア諸民族であれだけ戦った民族がおったか」
と言うわけですね。

その後も私は東南アジアをまわりましたが、
尊敬されるのが事実であると申し上げたい。

真珠湾攻撃は日本や東南アジアからアフリカ諸国まで歓呼して喜びました。
しかしアメリカのルーズベルトはニンマリして喜びました。
彼は早く第二次大戦に参加してイギリスを助けたかったんです。
日本に真珠湾攻撃をやらせたくてウズウズしていたし、チャーチルや蒋介石からも、
日本を怒らせるように頼みこんでいましたから真珠湾攻撃を
ルーズベルトが喜びチャーチルが喜び蒋介石も喜びました。
彼らの願い、謀略が成功したんですから。
しかし一番喜んだのはスターリンだったかもわからんです。
日独対米英と戦争をやらせてね、
弱ったところをゴソッと奪って世界を二分する大勢力になったんですからね。
第二次大戦はスターリンの謀略が最も成功したんですからね。
真珠湾攻撃というのはさまざまなことを考えさせられる不思議な攻撃だったなと思います。

このように歴史というものをもっとおおらかに、多面的に見てもらいたいものです。

昭和20年8月15日

昭和20年8月15日は経理部の幹部候補生として満州の奉天の駅にいたんです。
北からソ連の大軍が侵略してくるので女子供が一番哀れでした。
逃げるしか手が無いんですからね。
もう鈴なりのように女子供が乗っとるわけ。
無蓋の汽車の上に。それで太陽がカンカンに照るでしょ。
8月15日ですからね。それで子供が熱射病で死ぬるわけです。
死んだらもう腐るもんだから外へ捨てとった、投げとったです。
という哀れな民族の末路の只中に僕なんか立っとったわけ。

いざ戦争になって武器弾薬を失ったらもっとも哀れなのが女子供、
女子供がいかに哀れな姿になるかいうことを
教科書にもそのように教えなければいけない。
武装すると戦争になるいうのは逆なんです。それを感じましてね。
しかし学校の教科書でも教えんといけないですね。
日本人は300万人くらい居りましたかね。
軍隊を含めて、満州、朝鮮、樺太、千島含めて。
そのうち計算すると40何万死んでいます。
そういう犠牲のことは一つも教えんでもう広島長崎ばかり言うですからね、
教科書の書き直しを全面的にやらなければなりません。

「昭和の戦争記念館」第2巻 P63〜P104 ソ連侵攻による民族の末路体験 葛根廟の惨劇など

第二次大戦の総括

第二次大戦で最も哀れであったのはドイツでした。
ヒトラーは自殺したために無条件降伏し、
ドイツは米英仏ソ四ヶ国に分割占領されてしまいました。
ヒトラーはドイツ中心の「欧州新秩序建設」を目的としていましたが、
ドイツは崩壊して、欧州の半分はソ連に支配されるようになりました。
イギリスは戦勝国だが植民地の殆どを失いました。
アメリカは主力を尽くして戦ったがヨーロッパの半分はソ連、
アジアでは中共とソ連に半分以上をさらわれてしまいました。

日本はたしかに大敗戦しましたが、
大東亜戦争中に植えていた種が芽をふき、
アジアからアフリカまで独立し戦争目的の大半は達成しました。
それに日本は海外領土を失ったためにそれまで投下していた
資金を全部国内に投資しました。
そのために国内産業が充実し経済大国にもなりました。
第二次大戦で戦争目的を達成し経済も繁栄したのは
日本だけ、という結果となりました。
世紀末になって特に哀れをとどめたのはソ連です。
学問的に根本が間違ったマルクスレーニン主義に固執したために、
20世紀の後半近くなって模範的に自己崩壊してくれました。
人類のために大きな教訓を残したと言えましょう。

日本が勝っていたらアメリカをどう裁くか

〜死刑判決後無罪釈放・世界平和の秘策〜

私が東京裁判の批判をよくやるものですから、
先日、若い人から「もし日本が勝っていたら、アメリカをどう裁くか」
という質問を受けました。
山本五十六司令長官は初期の作戦が成功している時、
「ワシントン、ロンドンで城下の誓いをやらせる」
と豪語していました。
だからもし日本が勝利したら、
日本人ばかりでなくこれまで植民地として痛めつけられていたアジアや、
奴隷にされたアフリカなどの諸国民は黙っていないでしょう。
「米英が再び起ちあがれないように、米英を裁判にかけよ。
 戦犯をABC級にランクをつけて処刑せよ」と、
息まくかも知れません。

そうした中にあって昭和天皇は考えられます。
尊敬してやまない明治天皇は
「国のため仇なすあだはくだくとも いつくしむべきことな忘れそ」
と、詠まれています。
あの頃は国民こぞって捕虜を大事にしたし、
乃木将軍は敵将ステッセルと水師営の会見を行っています。

東郷司令長官は捕虜にしたロゼストウェンスキーに対し
佐世保の海軍病院まで見舞いに訪れました。
ロゼストウェンスキーはリバウ港から
大艦隊を率いて東洋まで遠征してきた大侵略者です。
アメリカ流に裁判にかけたらA級戦犯であり絞首刑にすべきものです。
その敵将を海戦五日後に、もう見舞ったのですから、
ウェンスキーは驚きあわてました。
敵将を見舞うことは例がないことです。
東郷は言いました。
「貴官は大遠征を見事に成功され、困難な中、最後まで戦われました。
 心から敬意を表します。不自由なことがあったら何でも申しつけて下さい」。
ウェンスキーは感激の余り返す言葉もなく、
「このような名将と戦うことができて敗れて悔いなし」
と述べました。

昭和天皇はこんなことを想起し徐々に東条首相を指導されました。
まず昭和天皇は
「裁判をワシントンでやれば、アメリカ人にウラミが残る。
 せめて太平洋の真中のハワイでやれ」
と指示されました。
誠忠無比な東條首相はそれに従います。
英米ソの中からA級、B級、C級をとり出し、裁判をすれば
「平和に対する罪」「人道の罪」で絞首や銃殺は千名以上を軽く超えましょう。
それに対してアジア、アフリカ諸国民は溜飲をさげ歓呼の声をあげます。
しかし昭和天皇は
「戦争は正義と正義の戦いであり、軍人は祖国へ忠誠を尽くしたものである」
として、全員に無罪を宣告するよう要請されます。
たしかに一度は裁判を行い、死刑を判決しました。
その後、全員を無罪として釈放したのです。
かくして昭和天皇は世界史に輝く「聖帝」と評価され
日本への尊敬心が生れます。

いわゆるA級戦犯

日本人はですね、
A級戦犯言えばもうそれでレッテルを貼ってしまってラベルを貼ってしまって、
何か悪い犯罪人かくらいの印象のほうが先立つわけですけどね。
しかしアメリカのオレゴン大学にはね、松岡洋介記念室がありますよ。
オレゴン大学の出身者で彼の業績をですね、オレゴン大学は評価している。
それから東條英機という人はユダヤ人を助けてくれたんでね、
イスラエルのゴールデンブックに載せようかと言う動きもあります。
そのようにね、評価が違うし多面的だしね、
日本人も多面的にものを見なくてはいけないと。
でA級戦犯というたら実際には何人くらいおったのか誰が決めたのか、
その中で靖国神社に祭られているA級戦犯は何人かあまり知らないでしょ。
そういう基礎的なことが一般にはわかっていない。

無期懲役と死刑の区別ですね、これなんかまあ雷が落ちたようなもんだと。
A級戦犯というのを金科玉条としてね、悪人とか犯罪人とかねぇ、
そういうレッテルを貼るのは間違っている。

あの頃の日本人はみんなねえ、いわゆる戦死者であると。
そういう人の犠牲があったから日本は独立できたんだと。
いわゆる生贄というかですね、あるいはそれこそ我々のためにですね、
尊い命を捧げてくださったということをですね、
あの頃の人はわかってたんじゃないんですか。

しかし一方ではね、敗戦の責任ですね、戦争に負けたんだと。
当時の政治家とか軍人として最高の地位にあった人たちは、
敗戦の責任をとってもらわないといけないんじゃないかと
一方では言う人がおりますけどね、
その敗戦の責任というのはどういう風に考えたらいいかですね。

私ね、奈良さん(軍事史研究家奈良保男氏)とも協力してもらって、
この敗戦直後に敗戦の責任を感じて自決した人がどのくらいあるか、
調べたことがあるんです。
600人をはるかに超えますわね。
でそのうちだいたい下士官兵が半分ですね、300人を超しますね、
そういう人はどうするのか。
下士官兵でも申し訳なかったと、
その自分の不忠を詫び責任を感じて自決した、
この人たちのことを誰も触れない。
これをどう考えるか。
それで事後法にもとづいて過去にさかのぼって
ああでもないこうでもない言うて泥を掛け合うようなね、
愚かなことをするよりもですね、
この人たちの自決した人達の遺書を読んでみいと。
もう手を合わすだけだと。
歴史の審判でそれが行われているんだとすでに。
言わなくても神々が見ている、歴史が見ているという気持ちが一方ではある。

今、自決者の話ですがね、それからまたBC級戦犯でね、
自分がすべての責任を背負うてね、何も言わずに処刑された人たちですね、
人柱ですね、こういう人たちのことを思うとね、
責任がどうのこうのというのは醜いですね。


@「昭和の戦争記念館」第二巻
 P123〜133 帝国軍人の八月十五日    阿南陸軍大臣 他
 P134〜146 自決による日本への留魂   尊攘同士会、明朗会、大東塾 他
          陸軍水戸航空通信学校反乱事件(塩山市・常泉寺)

A「昭和の戦争記念館」第五巻
 P43〜64   戦犯とされた 昭和の殉難者たち
          「空の神兵」 堀内豊秋大佐 他



ローマ法王が、昭和の殉難者に鎮魂のミサ

中・韓両国の恐日症

戦後日本は次第に中・韓両国から内政干渉をされてきました。
教科書問題から最近は靖国神社まで。
私は特に韓国には度々行きますので、親しい人が多いのです。
自宅を訪問した時などには、本音を聞かせてくれます。
彼らは日本が恐ろしいのです。

彼らは言います。
「今はおとなしく、呆けた格好してお詫びばかりしているが、
 『世をしのぶ仮の姿』で、日本人が本当に目を覚ましたら恐ろしい。
 あれだけの大戦争をやって最後まで戦った。
 太平洋からインド洋にかけて、あんなスケールの大きい機動作戦を
 敢行した民族はこれまでいなかった。
 日本人が目を覚まして本気になったら何をするか判らない。
 靖国神社は日本人に内輪ゲンカさせるのに格好の材料だ。
 日本人が一つに団結したら何をするか判らない。
 内輪ゲンカさせておかねば、枕を高くして眠れない」と。

私が、
「毛沢東は朝鮮戦争の時、韓国を侵略したではないか。
 なぜ中国に抗議しないか」
と言うと、

「中国は強いし怒るからできない。
 しかし日本人はすぐお詫びする。
 いつまでも頭を押さえておかねば危ない国だ。
 日本人の魂を眠らせておく必要がある。
 日本人に教えてあげよう。
 中韓両国に文句を言わせない方法がある。
 それは日本がもっと強くなることだ。
 日本人が強くなったら韓国はみんな親日に変わるよ。
 かっての日韓がそうであったように」と。

靖国神社

靖国神社をめぐっていろいろな雑音ばかり入ってきて、
中国・韓国という存在が余計雑音を増やしている感じがします。
とにかくA級戦犯を目の敵にするでしょ。
向こうは面白がってやっとんですよ。
日本国内が分裂するでしょ。こんなにおもしろいことはないですわ。
でもまあ行ったらいいとか悪いとかね、それでもう別の追悼施設造れいうてね、
マスコミがとりあげるでしょ。
こんな愚かな民族は無いじゃないですかね。
こんな愚かな民族は、今のうちからずっと押さえておかないとね。
この愚かな民族が目が覚めたらたいへん、
あの大東亜戦争をやった民族ですからね、
それもいつまでも呆けさせとかんといけない。
で如何に呆けさせるか、今のところ靖国神社で内輪ゲンカをやらせています。
これは効果的ですよ、靖国神社は魂の根源ですから。

今度は天皇で分裂させますよ。
男系天皇か、女系天皇かで。
日本は騙されるのが好きなのか、面白がられているのがわからんところがありますね。

パラオの政府顧問をやっているイナボさんがですね、
名古屋の県立会館で講演したときにですね、8000人集まったんですがね、

「日本の総理大臣は靖国神社に参らないそうですね。国賊ではありませんか」言うたらね、

万雷の拍手が起こってイナボさんは驚いていました。

「南京虐殺」はどう書いたらよいか

そもそも文部省は、教科書の検定にあたって、
「教科書用図書検定基準」なるものを「告示」している。
その中で「内容の記述」については、
まず第一に「正確性」を要求している。
そこには
「誤りや不正確なところはないこと。
 また一面的な見解だけを十分な配慮なく
 取り上げているところはないこと」
とある。
この趣旨にしたがえば、南京虐殺事件のような、
戦後(政治的意図をもって)デッチあげられた、
しかも「誤りや不正確なところ」が甚だしく混入している素材は、
とりあげるべきではない。
そのうえ、
中国側の「一方的な見解だけを、十分な配慮なく」取り上げることは、
検定基準の精神に反する。
教科書に南京虐殺はとりあげるべきではないが、
どうしてもモデルを示せといわれるなら、次のように書くよりほかあるまい。

「戦後になって、極東国際軍事裁判で、
 南京大虐殺がさもあったかのようにとりあげられました。
 しかしよく調べてみれば、 それは日本の過去を断罪するために仕組まれた虚構であることが、
 明らかとなりました。
 それでも日本のマスコミをはじめ多数の人々は、
 それが『事実』であると信じ、中国からも、教科書を書き直すように抗議せられたので、
 その通りにしたがったことがあります。
 しかしこれからはそうゆう過ちは繰り返してはいけません」

教科書にこのように書くことによって、虚報におどらされた日本民族の愚かさを、
歴史記録としてとどめておくことができるのではないか。
そして次代を受け継ぐ若者に、
このような愚行を繰り返さないように、教訓化できるのではあるまいか。

「反日国家・日本」より

真珠を捨てた豚

現代の日本はどうか。
文部大臣が防衛精神を教育の中に取り入れると言えば、それは右偏向と言い、
軍国主義教育と言って反対されてしまいます。
靖國神社の国家護持が行われず、靖國神社が教科書でも教えられない。
靖國神社が教えられないから、英霊の精神が伝わらない。
修学旅行で東京に行けば、東京タワーやラインダンスは見ても、
靖國神社の参拝はオミットされてしまう。
たまに靖國神社に行っても「見学」するだけで、礼拝することを教えない。
日本は現在高度経済成長を誇り、昭和元禄を自ら謳歌し、
他国からはエコノミック・アニマル(経済獣)と揶揄(やゆ)せられております。
しかし、
日本の過去には祖国の防衛のために殉じた真珠のような美しい戦死者の心があるのです。
それにも拘わらず、
日本人は真珠を捨てていつまでも
豚のごとくに肥え太ることだけを考えているように思われてならないのです。

戦死者の心を想えば、いらだたしい思いにかられるのは、私ばかりではありますまい。
このような状態を見て英霊は靖國の森で今何を想うか。
英霊は黙して語らず。
英霊の心中を断定することは、英霊への冒涜(ぼうとく)となりましょう。
英霊はいま恩讐(おんしゅう)を超えて歴史の彼方に立ち給(たも)う。
私はここに英霊の心に思いを馳せつつ、皆様と共に祈りの歌を歌うのみであります。

〜ますらをのかなしきいのちつみ重ねつみかさねまもる大和島根を〜

大東亜戦争を見直そう 明成社より


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