第3章 「昭和の戦争記念館」  前 史

はしがき―――精神鎖国からの解放ガイド

わが国が歴史認識をめぐって独立国らしく、対外的に発信できるようになるにはどうしたらよいか。
国会で「東京裁判排除宣言」をやるのが、最も手っ取り早い、と本シリーズ第二巻「あとがき」で提唱した。
提唱することは簡単だが、実現することは至難である。
なかば諦めた人たちは、
「日本はもっと国際的な動乱の中に揉まれる必要がある」とか、「外圧がなければ日本の目は醒めない」とか言われる。
しかし巧妙な外圧(教科書や靖国問題)は既に起っているし、解決を外に求めたのでは解決にならない。
岡倉天心もいうように、内から盛りあがらなければ、ホンモノではない。
そのために取り組んだ『昭和の戦争記念館』シリーズであった。

国民意識を内から盛り上げるにはどうしたらよいか。
その一助にもと思って昭和58年に、
「昭和の水師営・東條英機とマッカーサーの会見」と題する作品を書いたことがある。
この一文は『動向』の12月号に載ったのだが、
この作品に共鳴した団体が大量購入したため、一般にはあまり目に触れなかった。
この作品は、東京裁判の愚かさを、明治の精神を以って批判したものである。
そのモチーフを要約しよう。

〈そもそも戦争に勝ったとか、負けたとかは、第二義的価値しか持たない。
 勝ったからといって驕り、負けたからといって卑屈になることくらい恥ずかしいことはない。
 その点、日米ともに戦後処理を間違った。
 戦勝国のアメリカは自らの犯罪は棚にあげ、一時的な復讐心を持って日本を裁いた。
 日本はそれを跳ね返すことができず、今も不当な判決に支配されている。
 もし戦後アメリカの指導者が日本の立場を理解し、その勇戦を評価していたらと思われてならない。
 日本もアメリカが国家の総力を挙げて戦った背景はよく判るし、それに彼らの戦争指導は見事であった。
 日米双方が、“昨日の敵は今日の友”として相互理解を進めていたら、
 日米関係はより深い信頼関係に結ばれていたに違いない。
 日露戦争の時に、旅順が陥落すると明治天皇は乃木司令官に対して、
 「敵将ステッセルが祖国に尽くした勲功に敬意を表し、武士の名誉を保持するように」と訓令を発せられた。
 陛下の思召(おぼしめし)を畏んだ乃木将軍は礼を尽くしステッセルを招いた。
 両将は昼食を共にしながら、相互の勇戦を讃えた。
 この会見で乃木はロシア将兵の墓地を整備することを約束した。
 約束通りロシア兵士の墓を作り、中央に礼拝堂を建立した(明治40年6月完成)。
 除幕式にはロシア側から侍従式官長以下20名とロシア正教の僧侶10数名が参列した。
 日本はこのように敵の慰霊を先に行った。
 日本側の表忠塔を建てたのは、2年後の明治42年11月28日であった。
 それ以来ロシアは日本を尊敬するようになった。
 日露戦争の時ばかりではない。日本には古くから敗者を悼み、敵の勇戦を讃える伝統があった。
 アメリカはこの点に気づかず、一方的に日本を断罪した。
 あれだけの大戦争の結果、せっかく掴んだチャンスをアメリカは失ってしまった。
 今では日本に代わって“アジアの憲兵”の負担を強いられている。そればかりではない。
 不当な裁判によって処刑された千人以上の殉難者の慰霊をどうするのか。遺族の心情にどう応えるのか。〉

私は以上の点を主題として、明治天皇とトルーマン大統領の見識を対比しながら、
「空想政治小説」の形で、アジア安定の方途を訴えた。

そしてもう一編「昭和の戦争記念館」前史として紹介するのが、
『第二次大東亜会議(大東亜戦争・東京サミット)の提唱』と題する一文である。
この創作は、平成7年『カレント』7月号に書いたものである。
この年は終戦50年に当たり、5月には米・英・露等の国々は、対独戦勝祝賀の国家行事を行ない、
9月2日には米・露・中・等の諸国が対日戦勝記念の国家行事を盛大に挙行した。
これらの式典は、国によってニュアンスは違うが、
日独を戦争挑発者と見て全体主義国と断定し、民主主義の勝利を祝う点では共通していた。
それに対して日本では衆議院で過半数に満たない出席ながら謝罪めいた決議を行なった。
8月15日には「村山首相談話」の形で、自国の侵略行為と植民地支配を認め、
近隣諸国に迷惑をかけたことを謝罪した。戦勝国の一方的断罪を日本は追認したのである。
世界も日本も何という単純な歴史認識であることか。
そもそも歴史観は多様であり、国によって異なる。
勝った方が正しく、負けた方が不正であったと断定することくらい、愚かなことはない。
もし日本に成熟した歴史観が確立され、健全な外交感覚があったら、
大東亜戦争に関係した米・英・蘭・露をはじめアジア諸国を招いて、
東京で20世紀の戦争を総括する歴史サミットを行なうに違いない。
そのモデルを書いたのが、本編である。

今から何年も前に書いた旧作2編を、ここに紹介するのは、
『戦争記念館』シリーズの前史の意味があるからだけではない。
私は今年の6月15日に「西村塾」から講演を依頼された。この会は西村眞悟代議士を慕う若者の集いである。
そして26日には、早稲田大学国史研究会に招かれた。
いずれも『昭和の戦争記念館』シリーズのエキスをスライドで紹介することが主題であった。
聴衆は若い人々ばかりだったので、質問や感想が生々として新鮮であった。
彼らはこの2つの創作をどう受けとめるであろうか。そう思って主催者にこの2編を渡してみた。
読み終わった彼らは「これだ、これだ」と目を輝かして快哉し、大量にコピーして領布を始めた。
若い人々の反響の大きさに私自身驚いてしまった。
彼らは学術論文的なものより、小林よしのり氏の劇画風の訴え方に惹かれるのと共通性があるかも知れない。
この2編を掲載する所以である。


昭和の水師営 東條英機とマッカーサーの会見

第二次大東亜会議(大東亜戦争・東京サミット)の提唱


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